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4. 花の都 巴里 そして・・・









ドイツ本国召還命令を受けたグロッテだったが、彼は帰国しなかった。
ナチスに違和感を持っていたし、多くの技術者を擁するドイツで彼の腕を存分に振るえると も思えなかった。


グロッテの訪れたのはフランスは花の都 巴里。
おりしもフランスでは、歩兵支援用中戦車ルノーD2の代替車輌開発計画が始まっていた。
ルノーD2ルノーD1(1931)の小改良型で、1933年に正式採用されたばかりであった が、元々D1が持っていたサスペンションの欠陥を受け継いでいたのと、やや遅れて開発さ れていた優秀な騎兵戦車ソミュアS35の量産が重視されたため、少数生産に留まってい た。


歩兵支援用中戦車ルノーD2(1933)
19.75t 主砲47o砲 装甲最大40o 最高速度23km/h
旧式なルノーNC軽戦車の構造をほとんど受け継いでおり、
最初から見込みの無い戦車だった


騎兵戦車ソミュアS35(1936)
19.5t 主砲47o砲 装甲最大40o 最高速度40.7km/h
大戦初期における世界的優秀戦車
後の米国戦車M4シャーマンに多大な影響を与えた


1936年から研究されたこの試作戦車シリーズはルノ―G1と言う。
ルノ―G1の要求仕様は
重量 20トン
速度 40km/h
武装 現在開発中のB1bis重歩兵戦車と同じ
    旋回砲塔に47o砲、車体に75o砲


B1bis重歩兵戦車(1937)
31.5t 主砲75o砲×1 47o砲×1 装甲最大60o 最高速度28km/h
B1歩兵戦車の改良型
第二次大戦初期対独戦において最強であったが鈍重だったため各個撃破される


この武装がいかに無茶な要求かと言う事は、ここで比較にだされているB1bisが1.5倍の重 量をもっていると言う事で御理解いただけるだろう。

兎にも角にもはルノ―G1の開発は始まった。
まず最初に試作されたルノ―G1Pは無茶な事に電気駆動を目指した。


ルノーG1P SEAM戦車

無武装の走行実験車体が試作されたがやはりものにはならなかった。
はっきりしないもののグロッテがG1計画に参加したのはこの直後らしい。

*未確認なのですが、グロッテはG1Pから、つまり最初からG1計画に参加していた 可能性もあります。G1Pで採用された大型転輪は当時のフランスでは珍しい上、高速 走行向きでグロッテ設計の特徴の一つでもあったからです。

過去の実績が認められたのだろうか、次のG1Rは彼をチーフデザイナーとして進められ た。
まず1936年に設計されたG1Rはほぼ要求仕様に合致するものだった。


G1R 初期プラン実物大模型(1936)
20t 主砲47o砲×1 機銃×2 詳細不明

今までのフランス戦車には見られない大型旋回砲塔に47o砲を装備し、その頂部に対空 機銃塔。 親亀の上に小亀方式とでも言おうかTG-1を彷彿とさせるスタイリングである。
車体装備の75o砲は故意に外されているようだ。その代わりといっては47o砲が高初速 の長砲身砲を採用している。大口径榴弾は使用できないものの当時としては十分過ぎるほ どの武装と言って良かった。恐らく周囲の反響も良かったはずだ。

だがグロッテはここで暴走、いや満足する男では無かった。
昔から暖めていた75o砲装備旋回砲塔戦車の設計に邁進する。


G1R 後期プラン実物大模型(1939)
32t 主砲75o砲×1 機銃×1 詳細不明

性能は満足すべきものであり、砲塔の避弾経始はさらに向上し戦後ソ連戦車を見るかの ようである。この戦車が第二次大戦でフランスに大量配備されていたら戦局に与える影響 はどれほどのものがあっただろうか? 電撃戦の前に結局は敗れるにしても、あれほど脆 く崩壊する事は無かったかもしれない。
だがフランス軍当局の目は冷たい。
「我々は重戦車を欲している訳ではない!」
要求重量を12tも超過した事が不採用の決定的理由であった。
後年の諸外国戦車を見れば、旋回砲塔に75o砲を装備した戦車が30t前後になるのは当 たり前の事であったのに・・・
早過ぎた男は失意の内に巴里を後にする事になる。
「この国にも私の理解者はいなかった・・・」

*G1R不採用の理由としてもう一つ推測できるのは大型砲塔の採用です。
当時のフランスの戦車設計技術は世界トップクラスだったものの、ターレットリング削 り出し技術が他国より劣っていたため小さな一名用砲塔しか搭載する事ができず、 弱点となっていました。 上記G1Rの写真は実物大模型ですのでその点はどうにでも なるのですが、いざ生産しようと思っても造れないと言う状況が予想されます。この点 が不採用の真の理由ではなかったかと私は推測します。

彼は知らなかったであろうが、故郷をはさんだ向こう側の赤い国でも、奇しくも同じ現象が 起こっていた
ソ連邦においてもTG-1は大きな衝撃だった事は間違い無く、グロッテら独逸人が去った後 TG-1の研究開発は続けられていた。


TA-1(左)とTA-2(右)
上の図面を御覧いただきたい。
国家政治保安局・経済局自動車/戦車/ディーゼル機関設計部門が取り組んだTG-1の後 継戦車TA-1TA-2である。
そしてこれを今一度、下の写真と見比べて欲しい。



これはフランスでグロッテ自ら設計したルノーG1R後期型だ。
まさしく瓜二つ!!
グロッテがソ連で蒔いた種は着実に師と同じレベルに達していたのだ。
もちろんTA-1TA-2ともに採用される事は無かった。
だがその種は後年試作戦車A-20となり、さらに戦車史上もっとも偉大な戦車T-34と言う 大輪を咲かせる事となる。
もって瞑すべしエドゥアルト・グロッテ。

試作中戦車A-20(1938)
18t 主砲45o砲×1 7.62o×2 装甲最大25o 最高速度65km/h
BT高速戦車の後継。
この後、A-32、A-34両試作戦車を経てT-34となる。


T-34/76(1940)
26.3t 主砲76.2o砲×1 7.62o×2 装甲最大52o 最高速度53km/h
超有名戦車
ソ連戦車の栄光と共にあり、ソ連戦車凋落の遠因も内在した味わい深い戦車








ある程度はっきりしているグロッテの足跡はここまでである。
だが最後に一つの未確認情報を皆さんにお伝えして幕としたい。
この後、グロッテはもはやドイツに帰らず大西洋を渡りアメリカに入ったらしい。
そこで大戦が始まり、電撃戦によるフランス崩壊。
時が進んで独ソ戦。T-34の出現。
彼の感慨は如何ばかりであったろうか?
いや、彼にはそれさえ気にならなかったかも。
なぜなら彼が自由の国で最後に参画した戦車の開発に夢中だったから。
その戦車の名はT-34同様歴史に燦然と輝くM4シャーマンと言う。


M4A1(1942)
30.3t 主砲75o砲×1 12.7o×1 7.62o×2 装甲最大89o 最高速度34km/h
こちらも言わずと知れた超有名戦車
本国最終型M4A3E8は自衛隊にも供与されました
性能的にはT-34/76より劣るのですが、余裕のある設計は戦後米国戦車の基本とな って、最終的にソ連系戦車から勝利をもぎとりました

02/12/01




3. 悪夢の多砲塔超重戦車

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