失意のグロッテに対し次の依頼が舞い込んだ。
「グロッテ技師長、また新戦車を設計してみてはくれないかね?」
「私にいったい何をせよと?
T-28の他にもT-30なる多砲塔戦車が開発中らしいではないですか。
私のでる幕はもうありません・・・」
英国のヴィッカーズA1インディペンデント戦車(1926)を嚆矢とする多砲塔戦車は世界的
に流行の兆しを見せ、フランス・FCM 2C(1918・・・あれ?こっちの方が古いよね)、独逸・
グロストラクトァT(1929)、NbFz(1934)、日本の九五式重戦車(1934)などが相次いで開
発されていた。
英国 ヴィッカーズA1インディペンデント戦車(1926)
32t 主砲47o砲×1 7.7o×4 装甲最大28o 最高速度32.2km/h
先達のFCM 2Cを差し置いて、多砲塔戦車の祖と呼ばれる水子戦車
フランス FCM 2C(1918)
70t 主砲75o砲×1 8o×4 装甲最大45o 最高速度12km/h
第一次大戦に間に合わなかった塹壕突破用決戦兵器(笑)
限りなく水子に近い限定量産10輌
ドイツ グロストラクトァT(1929)
15t 主砲75o砲×1 7.92o×3 装甲最大14o 最高速度?km/h
ラッパロ秘密協定の元、ソ連国内で開発・建造
もちろん水子戦車
ドイツ NbFz Y号 :設計クルップ(1934)
23t 主砲75o砲×1 37o砲×1 7.92o×3 装甲最大20o 最高速度30km/h
2種類存在し、パンター&ティーガーに先だってX号、Y号と命名される
しかしてその実態は併せて5輌のみ試作の水子戦車
日本 九五式重戦車(1934)
26t 主砲70o砲×1 37o砲×1 7.7o×2 装甲最大35o 最高速度22km/h
日本初の国産試作一号戦車を改修して造られた九一式重戦車のそのまた改良型
果てし無く水子な4輌のみ量産?
よ〜するに全部水子か準水子戦車・・・
多砲塔戦車は構造的に無駄が多く装甲もあまり強化できない。
その上、鈍重・複雑高価でとても数を揃えられる代物では無かった。
ただ一国を除いて
「ここだけの話だが・・・・そのT-30がどうもうまくいってないらしい」
「それで? 私は無関係ですよ」
「グロッテ技師長。きみ、一から多砲塔戦車を設計してみる気は無いかね?」
「私が?」
「赤軍はTG-1をまとめた君の設計手腕を高く評価している。
そこで・・・今度は世界最強の超重戦車を設計して欲しい」
「世界最強の・・・超重戦車!?」
世界最強。
戦車、いや兵器開発者としてこれほど魅惑的な言葉はありえない。
TG-1の不採用に沈み込んでいたグロッテの心に再び火が付いた。
多砲塔戦車の研究に打ち込むグロッテの元に一つの朗報?が届いた。
「T-30はやはり不採用になった。
大重量を支え得るサスペンションの開発に失敗したらしい」
「ああ、その話ならとっくの昔に聞きましたよ。で、それだけじゃないんでしょ?」
「さすがだな。
ヴォロシロフ第174工場でT-30に代わる戦車の開発に着手するそうだ」
「ヴォロシロフ? このレニングラードにある工場じゃないですか」
「それがだ。この、T-35と言うんだが・・・TG-1を技術ベースにするらしい」
「え、そんな話は一言も聞いていませんが」
「TG-1は確かに君の作品だが・・・それをどうするかは全て我々の権限だ」
「・・・・・・」
T-35はグロッテはじめドイツ人技師を除いた生粋のソ連邦技師のみの手により着手され
た。
グロッテは何か黒いものが心の隅で蠢くのを感じていた。
グロッテの不安をよそに彼らの超重戦車は日一日と完成に近付いていた。
主砲塔に107oカノン砲、37〜45o砲を搭載した副砲塔2基と対空射撃可能な砲塔2基。
平行して開発されているT-35に対し寸法も重量も倍の100トン。
実現されればこの地上に抗し得るものは存在しない超重戦車だ。
その名をTG-5(T-42)と言う。
TG-5 (T-42)
しかし、終わりはあっけないほど簡単に訪れた。
「グロッテ、すまないがTG-5は開発中止だ」
「なぜです?」
「現行計画はT-35に一本化する事になったのだ。すまない」
中止の報を聞いてもグロッテは落ち着いていた、まるで見越していたかのように。
「が、超重戦車の研究は続行して欲しいとの事だ。
事態が好転しだいすぐ建造に入れるように」
グロッテはこの後も100トン戦車TG-6、70トン戦車TG-7の研究を続けた。
が、本国でのヒットラー政権登場により独ソ間の蜜月は終局に向かう。
ドイツ人技術者引き揚げ命令により、1933年8月グロッテも北の国を後にした。
結局、グロッテの戦車は一つも採用される事はなかった。
皮肉な事にグロッテが去る1年前の8月20日、TG-1をベースとしたT-35-1試作車が完成。
世界最強の量産型多砲塔戦車が産声を上げた瞬間であった。
T-35-1重戦車
44.8t 主砲76.2o砲×1 37o砲×2 7.62o×3 装甲最大30o 最高速度29km/h
*ここで異説を一つ。
グロッテら独逸人技師のソ連退去をグランド・パワー及び外国サイトの多くが
1933年8月としているため、私もこの説をとった。
しかしRussian State Military Archivesを主なソースとするバルバロッサブックスの
Land Battleship T-35によれば1932年。
TG-5(T-42)がT-35の発達・拡大型と解釈する前者より、
T-35-1はTG-1の技術を元に、TG-5も参考にしつつ開発されたとする
同著の方が時系列的にもすっきりとし納得しやすいと思われる。
今一度、TG-5とT-35-1を見比べて欲しい。レイアウトがそっくりだ。
実はサスペンションも同じ物をTG-5が片側7組半、T35-1が片側3組ずつ
使用されていると思われるのだ。
同著はT-35-1の開発を独逸人技師が去った後に再編成されたAVO-5としている。
多砲塔超重戦車からより現実的な多砲塔重戦車への設計変更。
T-35-1の短い開発期間はTG-5の設計やコンポーネントを流用する事で達成されたと
見るべきなのではなかろうか。
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